チェコ

「チェスキークルムロフ」荒廃していた時代を経て世界一美しい町へ

「世界一美しい町」といわれるチェスキークルムロフ

世界一美しい町のひとつといわれているチェスキークルムロフはチェコの南ボヘミア州にあります。

ボヘミアとはチェコ西部から中部にかけての地方名です。

チェスキーとは「ボヘミアの」という意味で、クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」という意味があります。

語源はドイツ語です。

モルダウ川,ヴルタヴァ川
チェスキークルムロフはその意味通り、ボヘミアの通商路とされていたモルダウ川(ヴルタヴァ川)沿いに建設された町や城です。

僕はオーストリアの首都ウィーンからこの町に行ったのですが、一般的にはチェコの首都プラハからバスなどで行く人が多いようで、片道3時間ほどかかるそうです。

チェスキークルムロフはそんなに大きい町ではないので、一日でだいたいの見どころを観光できます。

チェスキークルムロフの景観,街並み
静かで落ち着いた雰囲気で、色鮮やかな建物があっておしゃれな町です。

チェスキークルムロフにあるオープンカフェ
川沿いにオープンカフェが多かったです。

主な見どころとしては、クルムロフ城や聖ヴィトゥス教会があります。

クルムロフ城に行って気づいたのですが、壁を見ているとだまし絵があります。

チェスキークルムロフのクルムロフ城,だまし絵の壁
例えばこちら。一見普通の壁かと思ったら、絵でした。

チェスキークルムロフのクルムロフ城,だまし絵の壁
近づいて見るとよくわかる。

クルムロフ城の高台から見る町の景観は本当に素晴らしいです。

ただ行ったときは天気が悪かったのが残念。。

チェスキークルムロフの景観
見下ろすとこんな感じ。赤屋根の建物が並び、まるでおとぎ話に出てきそうな景観です。

チェスキークルムロフの景観,モルダウ川,ヴルタヴァ川
名前の通り川の湾曲部に町がある感じですね。

チェスキークルムロフの景観
一番の見どころはやっぱり町全体だなと。晴れていたらもっといいんだろうなとしみじみ感じていました。

町を歩き回って小腹が空いていたとき、こんなものを見つけました。

トルデルニーク
丸い筒の形をしたドーナツみたいなお菓子。

生地を棒にぐるぐる巻きつけて焼いて、砂糖とシナモンをまぶします。

トルデルニーク
トルデニークといわれるお菓子で、もともとはスロヴァキアの伝統的なお菓子らしいです。

トルデルニークが売られていたお店の看板
お店の看板にはこんなおじさんが。お菓子のマスコット的な?

伝統的なものをもうひとつ。

スヴィチコヴァー・ナ・スメタニェ
レストランで食べたのですが、スヴィチコヴァー・ナ・スメタニェという料理。

煮込んだ牛肉に甘めのソースとクランベリーソース、生クリームがかかっています。

女性におすすめっていう感じのマイルドな味わいです。

白いパンみたいなのはクネドリーキという伝統的なもので、色々な料理に付け合せてあります。

この料理はビールにも合いますねー。

チェコはビールでも有名。ピルスナーの発祥地で、このレストランの隣にはビールの醸造所がありました。

地ビールはエッゲンベルク。

地ビールエッゲンベルク
宿に戻ってからも飲みました。おいしい。

町も美しい、伝統的な料理やお菓子、ビールもおいしい。最高です。

チェスキークルムロフは今でこそ世界で一番美しい町と言われていますが、様々な歴史的背景があり、長い間荒廃していた時代もありました。

最初はドイツ系住民とチェコ系住民が共存していた

チェスキークルムロフは最初クルマウという名前でした。

クルマウにはドイツ系住民とチェコ系住民が暮らしていました。

1910年時点の人口の割合的にはドイツ系住民が8割以上を占めていました。

当時は地理的にドイツ語が有力とされていて、支配階級のドイツ系住民と被支配階級のチェコ系住民という民族間のヒエラルキーが決まっていたため、それがもはや当たり前で、民族意識が政治的緊張をもたらすことなく共存できていたそうです。

しかし、クルマウがオーストリア=ハンガリー帝国の一部になると民族主義が広まり、学校教育などドイツ系とチェコ系が分離されるようになります。

オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦で敗戦すると、クルマウはチェコスロバキア領となります。

このときに名前がクルマウからチェスキークルムロフに変わりました。

ナチス・ドイツによる支配

民族自決が認められないドイツ系住民の政治的不満が高まり、ナチス・ドイツがドイツ系住民の権利が迫害されているとして、ズデーテンという他の地方との併合を強行します。

これによって、チェスキークルムロフを含むボヘミア地方のドイツ語圏地域はドイツ領とされました。

これらの地域にはナチス・ドイツ軍の基地が置かれるなどして、ドイツ兵によって多くの歴史的建造物が破壊されます。

ですが、再びチェコスロバキア領に復帰するときが訪れます。

1945年の第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗戦したからです。

ドイツ系住民の追放

独立を回復したチェコスロバキア領に戻るわけですが、当時の大統領エドヴァルド・ベネシュがある指令を出します。

ベネシュ布告や無慈悲政策といわれているのですが、どのような指令だったかというと、ドイツ系住民の追放を目的とした指令でした。

ドイツ系住民のチェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪して、追放してしまいます。

ナチス・ドイツに支配されていたから、このようなことをしたんだと思いますが、この選択が正解だったのでしょうか。

今日のチェコにおいてもこのベネシュ布告に対しては必ずしも肯定的な意見ばかりではないようです。

まぁなにが正解かはわかりませんが、このベネシュ布告によって、結果的に250万人以上のドイツ系住民が追放されました。

荒廃していた町の歴史的価値が再認識

多くのドイツ系住民が追放されました。

チェスキークルムロフの人口のほとんどを占めていたのはドイツ系住民です。

かつてはドイツ系住民とチェコ系住民が共存していたのに、共存できなくなって、しまいにはドイツ系住民の追放。

この町を築いてきた人たちがいなくなったことで、チェスキークルムロフは次第に荒廃していきます。

1948年の共産主義化によって、歴史的建造物は「封建時代の遺構」とされて、歴史的価値を完全否定されてしまいます。

そこから長い年月をかけ、町の景観や建造物など、歴史的価値が再認識されて徐々に修復作業が行われます。

そして1992年、チェスキークルムロフは世界遺産に登録され、世界一美しい町とも呼ばれるようになりました。

世界一美しい町と呼ばれるこの町にはこんな歴史的背景があったんですね。

ちなみに歴史的価値が再認識されたこの町の建造物にはルネッサンス様式やバロック様式など、色々な様式が見られます。

これは、領主が何度も変わったことが理由です。

ローゼンベルク家やエッゲンベルク家、シュヴァルツェンベルク家など、ボヘミアの有力貴族が領主として変わっていく時代の流れのなかで、様々な様式の建築物が加わっていったのでしょう。

今度は晴れの日に、この美しい町で、おいしいビールを飲みながらおいしい料理を食べたいです。

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