サッカー日本代表のシンボルマークは三本足の黒い鳥。
出典:日本サッカー協会
これは「八咫烏(やたがらす)」といって、日本神話に出てくる鳥なのですが、和歌山県の那智勝浦町に行った際に、この八咫烏とサッカーの関係性について知ったのでご紹介します。
八咫烏は熊野の神様の使い
和歌山にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)には、昔から多くの人が参拝しました。
八咫烏はその熊野の神様の使いとされている烏で、神武天皇が東征する際に、大和まで道案内をしたという言い伝えがあります。
現在、八咫烏は熊野那智大社に祀られていて、導きの神様・交通安全の神様として崇められているのだとか。
ちなみに熊野那智大社の境内には、「烏石」というものがありますが、これは大和までの道案内をした八咫烏が熊野の地に戻ってきて、石に姿を変えて休んでいるというのを表しています。
また、八咫烏の咫(あた)という字は、寸や尺といった長さを表す単位の一つなんですが、八百万の神(やおよろずのかみ)が「数多くの神」を意味するのと同じで、八咫には「大きい」という意味があるみたい。
なぜ足が三本あるのかは、色々と諸説があるので、詳しくはわかりません。
八咫烏が日本サッカー協会のシンボルになった理由
サッカー日本代表のユニフォームにもあるシンボルマークとして、なぜ八咫烏が使われているのか。
その理由を説明するにあたって、日本サッカーの普及に関わった2人の人物を紹介しないといけません。
一人は、サッカーを日本に紹介し、その普及に大きく貢献した中村覚之助(なかむらかくのすけ)という人。
中村覚之助は明治11年、那智勝浦町で生まれました。
東京高等師範学校に在籍していた明治35年、英国の文献をもとに「アッソシェーション・フットボール」を編纂して、ア式蹴球部を創設したのですが、これが日本におけるサッカーの始まりです。
そして紹介しておくべきもう一人の人物が、日本サッカー協会の初代理事の一人だった内野台嶺(うちのたいれい)という人で、この人が日本サッカー協会のシンボルマークに八咫烏を提案した人。
その理由も色々諸説があるみたいなのですが、内野台嶺は中村覚之助の後輩で、明治39年に亡くなった中村覚之助氏のことを、「君の霊は永久に我が部の護神となりて・・・・」と偲んで、八咫烏を提案したのではないかといわれています。
また、かつて神武天皇を大和まで案内し、今も導きの神様として崇められていることから、勝利へ導くという意味も込められているのではないかなと、個人的には思っています。
このように、熊野の神の使いである八咫烏、中村覚之助が生まれた那智勝浦町と日本サッカーには深い結びつきがあるのです。
大門坂駐車場には、なでしこジャパンの記念モニュメントがあります。
また、記念モニュメントの周りには監督や選手の足跡もありました。
今でも、ワールドカップやオリンピックなどの国際大会の前になると、日本サッカー協会の関係者が、必勝祈願をしに参拝に訪れているのだとか。
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